COLUMNPosted on 2022/06/21

ドイツ・クアオルトの起源と歴史 Part.5

神秘の泉と神話

 古代ギリシアでは、詩人たちが神話などを物語ることは、神々や精霊たちからの霊感・インスピレーションを受けることではじめて可能になるという伝統的な考え方がありました。
 古代ギリシア文学の最も古い時代のひとつに属する、紀元前8世紀頃の詩人ヘシオドスの『神統記(Theogony)』では、神々の物語とそれを讃える詩が語られます。そのなかでは、神秘の泉と神話を人間が物語るための神々の霊感とが結びつけられている描写が見られます。物語詩は、以下のようにはじまります。

 
何よりも初めにヘリコーン山のミューズたちから歌おう
彼女たちは聖なるヘリコーンの高みに住み
スミレ色の花のような泉の、
強きクロノスの子の祭壇のまわりを、優しく踊っている。
ペルメーソスの川の流れ、ヒッポスの泉(*1)
またはオルメイオスの川の流れで
彼女たちは柔らかな肌を洗うと
ヘリコーン山の頂上で美しく情熱的な踊りを舞う。
そして彼女たちは夜霧(*2)をまといながら
とても美しい声を響かせながら夜道を歩き出す。
(中略)
彼女(ミューズ)たちがかつて、この私に、聖なるヘリコーン山の麓で
羊の世話をしていたヘシオドスにこの美しい歌を教えてくれたのだ。
イージス(*3)を着た神ゼウスの娘たちであり、オリュンポスのミューズである、
この女神たちはまず最初に、物語の前にこう語った。
「野原を耕す羊飼いよ、名誉もなく、ただ食べるだけの孤独な存在(*4)
私たちは、真実でないことを真実であるかのように話すこともできますが、
もし私たちが望むならば、真実を歌うこともできるのです。」
そう言って、大いなるゼウスの娘(ミューズ)たちは私に
とても美しく良い香りのする月桂樹(ダフネ)の枝で出来た杖を渡し
神々の声を与えるために息(プネウマ)を吹きかけてくれた。(*5)

 
 ここでは、神秘の泉に住む精霊のような神々によって、詩人に神話を語る力が授けられる描写されています。
 例えば北欧神話などでも、飲んだ者に霊感や知識を与える泉である「ミーミルの泉」や未来を司る女神の泉である「ウルズの泉」などにおいて、泉と霊感・知識などが関連されており、またインド神話・ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー、すなわち日本における弁才天(弁財天)は、サンスクリットで「湖、流れ、水(saras)のような(-vat)」という意味があり、芸術・芸能・弁舌などを司る女神は水の女神でもあります。

 
 このように、天然泉は古来、知識や霊感を与えるモチーフとして神話や民話などに多数現れます。また別の、以下のギリシア神話に関する詩もまた、背景においては同様です。これは、およそ紀元前7世紀以降に主に書かれ編纂されたとされる『ホメーロス風讃歌』の中のアポロンへの讃歌の一節です。

 
偉大なる王である神の子(アポロン)はかつて、その強力な弓を用いて、
美しい流れの泉を自らのものとしていた、その龍を打ち倒した。
その強く高貴な龍は、巨大な荒々しい体をもち、
たくさんの人間たちや羊たちを、災厄でもって、
その足踏みによって無慈悲に地面に打ち倒してきたものだ。(*6)

 
 予言の神でもあるアポロンは古代ギリシアのデルポイにて、そこに住む龍を倒して神託所を開いたという伝説がありますが、そのそばには上記の「美しい流れの泉(κρήνη)」があったことが語られています。
 アポロンの聖地であるデルポイの神託所では、かつてシビュッラとよばれる巫女が神がかりになり、人間たちの運命を司っている神々のお告げ・神託を人々に伝える儀式などが行われていました。そして、古代ギリシアの共同体の指導者などは、このデルポイを訪れ、神々の助言をもらうために、巫女の神託を受けていました。このデルポイの神託所も、前にご紹介しました医療の聖地アスクレペイオンと同じく、神聖な森、湧き水の泉、神殿などで構成されたひとつの聖地を形成していました。

 
 デルポイの神託所のあるパルナッソス山にはその周辺各地に湧き水がいくつもありましたが、なかでもこのデルポイの「カスタリアの泉(Κασταλία πηγή)」と呼ばれている泉は、飲んだ者に詩を語る霊感を与えるとされており、古代から近代まで文学的テーマとしても有名な泉のひとつです。ドイツ文学でも、ハインリヒ・ハイネやヘルマン・ヘッセといった有名な作家たちがこのカスタリアの泉にまつわる物語や詩を書いています。(*7)

 

 
 この泉に関して、古代ギリシアの地理・歴史学者であったパウサニアス、シケリアのディオドロス、ストラボンらの叙述によれば、デルポイのパルナッソス山のこれらの泉は地下深くから流れ上がって来ている水であり、すなわち地下深くにある「大地の気息(プネウマ)」を含んでいました。そのため、それを含んだガスを吸ったり水を飲んだ者は、大地の神の力を得て神がかりになり、神託を受け取る霊感を得られるのだ、とされています。(*8)

 
 すなわちこれは、現代風に言えば地中深くのガスや鉱物を含む天然泉、および蒸気やガスなどの吸引により、陶酔状態になることで巫女たちが特別なヴィジョンや神託を受け取っていたということです。今までいくつか、天然泉と知識や詩・神話を語る力との関連を各国の神話に見てきましたが、部分的には、このような、大地奥深くの鉱水成分や天然ガスによる陶酔のなせるわざであったと言うこともできるかもしれません。

 
 このパウサニアスらの描写において興味深いのは、そのように地下の水脈という性質についての言及があるということです。それは現代の鉱泉におけるミネラル成分の分析の発想を思い起こさせます。もちろん、現代の地質学のように、鉱泉成分分析が現代的な物質名によって定義されているわけではありませんが、地下鉱石を含んだ水の効能というこの発想自体は、実はその後の西欧でのクアオルトの発展のあり方にはとても深い関わりがあります。

 
 クアオルト自体は近代に成立した街のシステムですが、そこに至るまでの数々の歴史を持つ療養地の街の多くは、かつてドイツで隆盛した地質学・鉱物学に関する研究との密接な関わりを持っています。
 すなわち、ここでパウサニアスらが行った思索のように、ドイツでは特に中世以降、鉱泉水のミネラル成分に関する研究などが盛んになり、同時にそれが健康に寄与するということについても多く研究がなされてきました。
 古来よりドイツ各所には治療効果のある「奇跡の水」がいくつか存在し、それを求める人たちのために、その泉を中心として街が発展していきました。それは後に鉱泉分析とともにその治療効果が認められ健康保養地として確立し、後にクアオルトの名を冠することになっていくものでもあります。
 その構図は、古代ギリシアの一部の街にも共通する事項のひとつであり、前述のデルポイなどの場合はシャーマンの陶酔技術のためのものではありますが、古代ギリシアの時代から特別な鉱質を持つ天然泉での飲泉、入浴、洞窟や天然ガスなどの人体への効能などはその当時の文脈において知られており、活用されてきました。

 
 現代のクアオルトにおいても、療法としての鉱石や天然の洞窟の空気などを利用したものが数多くあります。ドイツのニーダーザクセン州にあるクアオルトであるバート・ピュルモント(Bad Pyrmont)には、天然の洞窟での健康のため炭酸ガス浴(CO2-Quellgasbäder)の施設であるデュンストヘーレ(Dünsthöhle : 蒸気の洞窟)があり、街のクアオルトとしての特徴的な名物のひとつになっています。

 

 

精霊たちのすむ海辺の洞窟

 他にも、古代ギリシアの伝承・神話においては、いわゆる神々の末裔のなかに、日本で言うところの「自然の精霊」のような存在である、ギリシア語でニュンペー(ニンフ)と呼ばれる精霊たちがいます。その精霊たちのグループのなかでも水の精たちのことは、ナイアス(複数形:ナイアデス)と呼ばれていました。
 日本の神道・アニミズム的な文化伝承とも共通する部分がありますが、そういった精霊たちは純粋で特別に質の良い自然環境にしか住まないとされていました。そして、そのような精霊たちが住むことができるような泉や河川は、当時の人々からもひときわ特別視されており、中にはその精霊たちが住んでいる美しい水を飲むと病気が治るといった伝承もありました。

 
 例えば、同じく前述のパウサニアスやストラボンの文献にも、そのような伝説的な治療の自然環境に関する話があります。
 ナイアデスのうち、川の精霊(ポタミデス)に属するアニグリデス(Ανιγριδες, AnigridesまたはΑνιγριαδες, Anigriades)と呼ばれる精霊たちがいました。アニグリデスは、現在のギリシアのエリス島、ザハロ(Ζαχάρω, Zacharo)にあったとされるアニグロス川(Ανιγρος ποταμός, Anigros または Anigrus)に住むと言われており、アニグリデスたちが住む水には癒しの力があり、特に皮膚の病に対して有効であるといわれていました。そのために、皮膚病の患者たちがこの地を訪れ、川沿いにある洞窟にてアニグリデスへの祈りと動物などの犠牲を捧げ、沐浴をすることで治癒が行われていたということが語られています。(*9)
 そのエリス島ザハロのアニグリデスの洞窟のあった場所は現在、カイアファス湖(Λίμνη Καϊάφα
)の温泉施設であるカイアファス温泉(Ιαματικά ΛουτράΚαϊάφα, Kaiafas Thermal Springs)になっています。(*10)

 
 このアニグリデスの洞窟は海岸線の湖に位置しており、その環境要因において、山から流れてくる河川の水とイオニア海の海水とが混ざり合う地点にあります。この環境要因の組み合わせは、実のところドイツ北部、海岸線にあるクアオルトに多く共通点があります。

 

 現代の北ドイツ沿岸部のクアオルトでは、天然の海の気候や海水を用いたタラソテラピー(海洋療法)が盛んですが、そこでは皮膚系疾患への効用を掲げている場所も多く、海水と皮膚疾患、心臓疾患、アレルギーなどの関連性を中心に医療機関により研究がなされています。
 このアニグリデスの洞窟もまた、状態の良い自然と、海水と山の鉱水との組み合わせと皮膚疾患への効能という組み合わせが、以前にも少し紹介しましたが、このような北ドイツのクアオルトで研究されている事柄を思い起こさせるものがあります。

 
 海水、干潟の自然環境、海洋性気候という文脈でのクアオルトという意味では当然ドイツでは海岸線のある北ドイツ各州のクアオルトが有名ですが、天然の塩水を用いた療法は、必ずしも北の海辺のタラソテラピーだけのものではありません。山岳型の環境のクアオルトでも、山のミネラルによる塩水が特徴的な地域があります。

 
 ドイツでは、世界に流通している天然炭酸水のメーカーなどでも有名ですが、特にアルプス側の領域において、山岳的な硬度の高い天然泉、天然炭酸泉が多く存在しており、その領域の一部は塩や塩水の採取地としても有名です。
 現代ではその領域は国としてはオーストリアにあたる領域ですが、ザルツブルクという地名がドイツ語で「塩の砦」という意味であることが特徴的なように、これらの領域は、古来より塩の産地および交易拠点として有名でした。

 
 オーストリアのオーバーエスターライヒ州にあるハルシュタット(Hallstatt)は、その街の風景が世界遺産に登録されていますが、その街で採取される天然岩塩と塩坑は特に有名です。ハルシュタットの塩坑は、周辺から発掘された鹿の角でつくられたピッケルの年代測定によれば、ゆうに紀元前5000年前から存在していたということがわかっています。現在は、この塩坑はザルツヴェルテンという、見学できる博物館となっています。(*11)

 
 食料の保存という観点でも、古代から塩は重要な物産として都市を発展させる契機となっていましたが、文献的には古くは中世頃より、このアルプスの塩水が健康のために活用され、この領域にいくつかの温泉地として有名な観光街が存在しています。この地域は、現在においてはドイツとオーストリアの国境線上にある場所であり、ドイツ領にあたる街はドイツ・クアオルトとして認定されている街もあります。
 いずれもザルツブルクの周辺の街ではあるものの、ドイツ領にあたるバート・ライヒェンハル(Bad Reichenhall)ではアルプスの塩水を用いた温泉や岩塩・塩坑を用いた治療などが有名です。また、オーストリア領にあたるバート・ガスタイン(Bad Gastein)なども、鉱山としての古い歴史を持つ街であり、温泉や鉱山を用いたラドン療法などで有名な療養地です。

 
 このような、アルプスの周辺の各国のクアオルトや療養地では、山の洞窟のラドン等の鉱石成分や気温・湿度などの洞窟環境を利用した自然治癒力を促す療法であるハイルシュトレン療法のように、ミネラル成分や環境要因を利用した岩盤浴的な療法が頻繁に見られます。

 

 

注釈

(*1)ヒッポスとは、ギリシア語で馬を意味するので、このヒッポスの泉(Ἵππου κρήνης)とは、馬の泉という意味になります。この場所の名前は、ギリシア神話における翼を持った伝説の馬であるペガサスがこの場所を蹴った時に泉が吹き出してきたという逸話に基づいています。参考:呉茂一『ギリシア神話(上)』新潮社、2007、152-153頁

(*2)ここで霧という言葉は原典の古典ギリシア語では ἀήρ と表現されており、霧の他にサウナや温泉の蒸気のような意味もあります。

(*3)イージスとは、古典ギリシア語のアイギス(αἰγίς)の英語読みですが、「羊(αἴξ)の皮」という意味があります。

(*4)この箇所は古典ギリシア語で γαστέρες οἶον と表現されており、直訳すると「孤独な胃袋たちよ」という意味になります。

(*5)ヘシオドス『神統記』 Hesiod Theogony, 1-10, 22-32, 著者個人訳

(*6)『ホメーロス風讃歌』 Homeric Hymns, to Apollo (Hymn 3) , 300 – 304, 著者個人訳

(*7)ハインリヒ・ハイネの詩集『ロマンツェーロ(Romanzero)』の詩「私は音楽の神である(Ich bin der Gott der Musika)」にてカスタリアの泉が言及されています。またヘルマン・ヘッセ『ガラス玉遊戯(Glasperlenspiel)』では、その物語の舞台となる場所として、この泉とその場所を司る精霊でもあるカスタリアの名をもとにした、カスターリエン(Kastalien)という架空の地方を描いています。

(*8)パウサニアス『ギリシア案内記』10.24.7, シケリアのディオドロス『歴史叢書(Bibliotheke Historike)』16.26.2-6, ストラボン 『地理誌(Geographika)』9.3.5, および参考:Cecilia Nobili, The sanctuary of Delphi in Heliodorus’ Aethiopica: Between material culture and intertextuality, Ancient Narrative Volume 16 p.23

(*9)パウサニアス『ギリシア案内記』5.5.7-11, ストラボン『地理誌』8. 3. 19

(*10)参考:ザハロ自治体公式HP – カイアファス温泉(現代ギリシア語):https://www.zacharo.gr/business/iamatika-loytra-kaiafas-loytropoli/

(*11)参考:Salzwelten公式ホームページ、「鉱山の7000年の歴史」の紹介ページより:https://www.salzwelten.at/de/blog/hallstatt-archaeologie

山川 淳生

(株)日本クアオルト研究所・研究員
2011年多摩美術大学卒業、2013年成城大学大学院修了、2016年成城大学大学院博士課程後期単位取得満期退学、2016-2020年首都大学東京(現:東京都立大学)非常勤講師
研究論文等:研究ノート『ルドルフ・シュタイナーの神話・寓話観から』『古代思想は何処へ行ったのか』『ゲーテと占星術、想像力とポエジー』紀要論文『ゲーテの『秘儀』とその探求、及びシュタイナーの解釈』など