COLUMNPosted on 2022/11/30

ミヒャエル・エンデ『モモ』とクアオルト

ミヒャエル・エンデとガーミッシュ・パーテンキルヒェン

 ドイツ・バイエルン州にあるクアオルトの街、ガーミッシュ・パーテンキルヒェンは、ドイツとオーストリアの国境線近くに位置し、ドイツ最高峰となるアルプス山脈のツークシュピッツェの北にある街です。
 アルプス山脈の山岳性気候の豊かな自然を利用したクアオルトであり、転地療法における気候利用に治療効果が認められたクアオルトの称号である、治療気候性療養地(Heilklimatischer Kurort)でもある街です。また同じく、山岳を利用したトレッキングやスポーツなどの拠点として、観光にも活用されている街です。 [1]

 

 ガーミッシュ・パーテンキルヒェンの領域には、最も古くは新石器時代の紀元前2000年頃の狩猟民族の痕跡が見受けられ、また地名などにはケルト人たちの痕跡も見受けられます。街としての歴史がはじまるのは、紀元前後の時代から紀元後2世紀頃にかけてのローマ人たちによる街道の街の建設からになります。

 ローマ帝国のラエティア属州となったこの地域には、北イタリアの現在のロンバルディア州オスティッリア(Ostiglia)からアルプスを越えて現在の南ドイツのブルクヘーフェン(Burghöfen)までを繋ぐ街道であるローマ街道、クラウディア・アウグスタ街道(Via Claudia Augusta)が築かれました。そのローマ街道上のひとつの拠点として築かれた街として、ガーミッシュ・パーテンキルヒェンは最初の発展を遂げました。

 その後もドイツの有力な商人たちによるイタリアの地方との交易や旅行における拠点となる街であると同時に、中世ドイツの主要な産業である川を利用した木材運搬などの産業でも発展しましたが、17世紀後半の三十年戦争で被害を受け、貧しくなってしまいます。

 しかしその後はミュンヒェンなどの都会に住む有力者や芸術家たちの休暇地として活用されはじめました。特に1889年にミュンヒェンへの鉄道が開通して以降はそれが特に盛んになり、豊かな自然の側面と、芸術家たちが多く滞在する芸術文化の観光リゾートとして発展を遂げることになりました。

 その後、世界大戦などで一度ストップした観光業は戦後再び息を吹き返し、芸術家たちにゆかりのあるアルプスのリゾート地であり、またクアオルトの街として、現在に至ります。[2]

 

 そのような歴史と文化的土壌を持つガーミッシュ・パーテンキルヒェンにゆかりがある人物として、作家のミヒャエル・エンデがいます。

 ミヒャエル・エンデは1929年に、第二次世界大戦前のドイツ、ガーミッシュ・パーテンキルヒェン(当時は、パーテンキルヒェンと併合前のガーミッシュ)に生まれました。2歳になるまでをこの地で過ごし、その後エンデの一家はミュンヒェンに引っ越すことになります。しかしまたその後、エンデが14歳の頃、第二次世界大戦中に空襲の被害を受けるミュンヒェンからの疎開で、再び生まれ故郷のガーミッシュに戻ることになります。そこで一年ほど、エンデが知人から紹介されシュトゥットガルトで再開したシュタイナー学校であるヴァルドルフ自由学校に通うようになるまで、この生まれ故郷の地で過ごすことになります。

 そのようにエンデがこの地で過ごした年数はわずかですが、エンデはこの地に1990年にカイザーリンデ(Kaiserlinde)の樹を贈っています。[3]

 カイザーリンデは、セイヨウシナノキ(Tilia x Europaea)の一種であり、ドイツ語でカイザー(Kaiser)は皇帝、リンデ(Linde)は菩提樹と訳されます。このリンデの樹は特に、古来よりゲルマンやスラブ系の民族にとって神聖な樹とされ、この樹のもとで祝祭が行われたり、街の通りの名前、音楽や文学などに頻繁に登場するなど、特に象徴的な樹だと言えます。

 古来より樹木を崇拝し、樹木に特別な意味を持たせ続けているのはドイツ文化の大きな特徴のひとつであり、それはドイツの街づくりは勿論、クアパークやクアオルトの景観にも不可欠な要素もあります。

 カイザーリンデの樹は、リンデのなかでも特に、その名の通りドイツ帝国の独立の記念や、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世を記念して植樹されたといった歴史を持つ品種です。そのような樹をエンデが故郷のひとつに送ったということに、エンデとこの地との強い縁を感じられるところでもあります。[4]

 

 

ミヒャエル・エンデ『モモ』と近現代社会

 ミヒャエル・エンデは、児童文学やファンタジー文学の著名な作家として語られますが、その物語には、社会や労働、貨幣、時間といったテーマがふんだんに盛り込まれており、大人が読んでも、または大人が読んでこそ深い気づきを得られるような物語は多いことでしょう。それはすなわち、そういった生活や時間などに関する近現代社会的な常識のなかで、人々が「本当に善く生きること」とは何かという問いの提示でもあるでしょう。

 

 例えば、エンデの小説『モモ(副題:時間泥棒と、盗まれた時間を人々に取り戻してくれた少女の奇妙なお話)』では、浮浪者風の少女モモと、彼女のすむ街にあらわれた「灰色の男たち(Die grauen Herren)」との間をめぐる冒険物語が展開されます。

 灰色の男たちは現代的なセールスマンの身なりをしていて、街の人々に「時間の貯蓄」をすすめます。1日の間の無駄な時間、すなわち仕事や経済活動などの物質的利益に結びつかない時間の多さを力説し、それらの時間の浪費をやめ、時間を貯蓄することを灰色の男たちは人々に言い聞かせます。

 灰色の男たちのすすめに従って「無駄な時間の削除」を行った街の人々には以前のような余裕が消え、無駄を省き日常生活の行動をすべてを一刻も早くこなそうとして忙しさが増し、同時に子供たちにも想像力を用いた外でのごっこ遊びなどは規制され、「仕事で役に立つこと」だけを叩き込む教育の場に入れられるなど、自然で人間的な営みの部分が消えていきます。

 そのような制限された「時間」と「生き方」「時間の貯蓄」をすすめる灰色の男たちから、不思議な力を持った少女モモが、「時の管理人」たちの協力などを得て、人々を解放するという物語です。

 

 この物語は、エンデの小説のなかでも代表的作品のひとつであり、前述のように、ファンタジー小説としての側面とともに、現代社会の人々に対する生き方への根本的な問いもあり、深い示唆のある作品です。

 時間の節約に追われる人々の描写によって、この物語では主に「近代社会化」のようなものが描かれています。時間と利益の貯蓄に追われ、余裕を失っていく大人たちとその支配下におかれる子供達の様相が、近代社会への風刺の様相を持っています。

 

 この物語の持つメッセージ性と共通のテーマとして時折挙げられるものとして、マックス・ヴェーバーの著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』やそこに引用されたベンジャミン・フランクリンの著作『若き商人への手紙』で記された「時は金なり」という言葉などがあります。[5]

 

 

マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

 ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は1904年の著作であり、エンデの『モモ』は1973年の著作なので、時代的には大きな差があります。しかしそれでも近代社会の持つ問題に関して同じメッセージ性を持つということは、それがずっと変わらないということを意味します。

 そして何よりもそれが、ヴェーバーやエンデからも更に幾分か時間を経た私たちの現代社会にも通用する問題でもあるということもまた、注目すべきところです。

 

 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、西洋のみならず東洋の宗教や社会のあり方に関する比較宗教学の研究家でもあるヴェーバーが、西洋の近代資本主義の出現は特定のキリスト教精神などにその影響や起源を持っているのではないか、といったことを探求した著作です。この著作のなかでヴェーバーは、例えば以下のベンジャミン・フランクリンについて語られた文章を引用しています。

 

 時は金だと考えよ、毎日10シリング稼ぐことができる人が、日の半分を散歩に費やしていたり、家の中でのんびりと過ごしているとして、仮に6ペンスを娯楽のために使っただけだとしても、その分の出費だけでなく、その人はそれに加えて5シリングを支出している、それどころか捨てているようなものなのだ。[6]

 

 これはベンジャミン・フランクリンが友人に当てた手紙である「若き商人への手紙(Advice to a young trademan, written by an old one)」の文中の一節です。有名な、時は金なりという格言の大元となるものの一つだと言われています。[7]
 この「時は金なり」の考え方は、前述のように『モモ』の物語でも物語の中心的テーマであり風刺の対象として存在しています。

 

 ヴェーバーは、著作内のこのフランクリンの言葉を、直接ではなく、オーストリアの作家フェルディナント・キュルンベルガー(Ferdinand Kürnberger, 1821-1879)の『アメリカにうんざりした男(Der Amerika-Müde, 1855)』という小説に登場する部分から引用しています。

 この『アメリカにうんざりした男』では、夢を持ってアメリカに渡ったものの、そこではびこる拝金主義、営利主義、それに付随する詐欺や人種差別などと出会ってすっかり幻滅してヨーロッパに帰ってくるという主題の小説です。[8]

 「時は金なり」の資本主義の側面を描き出す上でヴェーバーは、フランクリンから引用したキュルンベルガーの著作を引用するという二重に引用を行うことで、資本主義のひとつの形の大元を描き出すと同時に、当時のドイツ文化圏におけるアメリカへの嫌悪感のような傾向の歴史的根源もまた、描き出そうとしていると言うことができます。

 

 ヴェーバーは、この『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でも、資本主義の思想の根源として、プロテスタンティズムの、なかでもカルヴァン主義における予定説の考え方にそれを求めています。

 予定説とは、神がその人の死後に魂を救済し、自身の死後が安泰となるかどうかは、生まれたその時からすでに全知全能の神によって定められており、生前の行為とは関係がない、とする考え方です。

 ある意味では、それは「悪いことをすると罰があたる」「良いことをすると自分に良いことが帰ってくる」といった、カルマと因果応報的なものとは真逆の思想であり、宗教の教義としては異質なものと言えるでしょう。

 予定説においては、宗教的な必要事項ははじめから全て決まっていることから、人生において神に近づく行為、善行や祈り、教会への奉仕などが意味をなくすことにもなります。それ自体は、プロテスタンティズムの発端となる運動である宗教改革において、カトリックの教会の権威、お布施、修道院的な要素の否定につながり、そのために生まれた対立構造上の思想傾向だとも言えるかもしれません。

 

 ヴェーバーは、プロテスタントの国家において、予定説による「自分の死後の安泰は知り得ない」という現世における虚無感の埋め合わせのために「天職(Beruf)」という概念が生まれたということを述べます。天職とは、ここでの意味合いとしては、「自分に最もふさわしい仕事」という現代の意味も多少なりあるかもしれませんが、主にはキリスト教的な文脈において、「神が望む仕事」「神の栄光のための仕事」のような意味があります。

 本来、予定説では自分が救われるかどうかはわからないはずなのですが、それを通して、すぐに「神が望む仕事をしている者は、救われる証となっている」という思想が生まれてきます。すなわち、禁欲的に仕事に打ち込むことが、神の仕事の実現であり、個人の仕事の成功は神から救われる証であると、結論としてはキリスト教的な基本原則には戻っていきます。

 

 ただ以前との違いとして、それまで「救われるための行い」であった教会への奉仕や、祈り、善行、などが予定説以降に価値が下がり、禁欲的な労働に置き換えられたという大きな変化があります。その意味では、例えば宗教の一つの側面であるの「私はなぜ生きるのか?」のような問いもまた、多少なり隅に追いやられたとも言えます。

 禁欲的な労働、時間を守り無駄にしないこと、などはプロテスタンティズム以前のカトリックなどの修道院などの会則にもよく見られるものです。その意味では、ヴェーバーは予定説に近現代資本主義成立への影響を求めつつ、同時にそのような修道院会則的なものからの発展であることも示したことになります。

 しかしそれが宗教改革以降、特に教会や修道院を必要としない一般大衆的な場面でも適用され、またさらにはそこから表面的には宗教色を失うことでその起源がぼやけて常識・習慣となり、近現代資本主義が生まれます。無宗教・非宗教的な習慣に見えるものも、歴史を辿れば宗教的な習慣からつながっている事も多々あります。

 

 

自然と生命

 このように、ここまで見てきたような歴史上の出来事の結果生まれた方向性の象徴として、ヴェーバーの著作ではフランクリンの手紙が引用されています。

 ヴェーバーのこの著作は、当時のヨーロッパに大きな影響を与え、様々な思想家、哲学者、研究者たちがこの著作に言及しました。そのような、ヴェーバーからエンデに至るまでの、人間の生命、時間、労働に関する世界観、構造に関する他の思想家たちの考えなども、今後見ていければと思います。

 ヴェーバーは特に彼の研究領域である比較宗教学的な見地とともにその影響や起源、歴史、成り立ちを示すことでこの近現代の世界観を人々に意識させましたが、エンデの『モモ』は冒険的な物語を通して、芸術的にかつ寓話的に人々に同じものを意識させました。

 

 最初に話しました、ドイツ・クアオルトであるガーミッシュ・パーテンキルヒェンのクアパークは、ミヒャエル・エンデ・クアパーク(Michael Ende Kurpark)という名称をしており、エンデの著作にちなんだ設置物が多数あり、もちろん『モモ』を題材とした彫刻等もあります。

『モモ』において人々が時間の観念によって失ったものとしては、人間の本来の生き方、自然な生命の生き方でした。ドイツ・クアオルトでは、このガーミッシュ・パーテンキルヒェンなども含めて、自然環境を健康のために利用しています。それは、本来自然の中に生きていた生命である人間が、自然と切り離されすぎてむしろ心身を不健康にしたり、かえって自らを苦しめるような生活になってしまったところから立ち戻って、自分の生命としての本質を再認識するきっかけともなることでしょう。

 

注釈

[1] 参考:ガーミッシュ・パーテンキルヒェン公式ページ:Heilklimatischer Kurort:https://www.gapa-tourismus.de/kurort

[2] 参考:ガーミッシュパーテンキルヒェン公式ページ:ガーミッシュ・パーテンキルヒェンの歴史:Einleitung zur Geschichte von Garmisch-Partenkirchen:
https://buergerservice.gapa.de/unser-markt/geschichte-von-garmisch-partenkirchen/

同じく、ガーミッシュ・パーテンキルヒェン・インフォポータルより、ガーミッシュ・パーテンキルヒェンの歴史:Die Geschichte von Garmisch-Partenkirchen:https://www.garmisch-partenkirchen-info.de/geschichte.php

[3] 参考:Die Phantastische Gesellschaft e.V. ミヒャエル・エンデのバイオグラフィー:Über Michael Ende – Biographie:https://www.phantastische-gesellschaft.de/biographie.php
および、同サイト ミヒャエル・エンデのガーミッシュ・パーテンキルヒェンでの生活:Leben in Garmisch-Partenkirchen:https://www.phantastische-gesellschaft.de/biographie.php

[4] 参考:Ottmar Prothmann, »Kaiserlinden« in der Gemeinde Grafschaft, URL : https://relaunch.kreis-ahrweiler.de/kvar/VT/hjb1989/hjb1989.51.htm, および Andreas Barlage, Kaiserlinde Tilia x intermedia “Pallida”, URL : https://www.mein-schoener-garten.de/pflanzen/linde/kaiserlinde

[5] 参考:大里巌『近代社会の合理的精神と「モモ」に描かれた時間』広島女学院大学一般教育紀要、1991

[6] Max Weber, Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus, aus Wikisource, der freien Quellensammlung, p.20, 原文より訳。他参考:マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の«精神»』訳:梶山力、編:安藤英治、1994、89頁

[7] 参考:Advice to a Young Tradesman, [21 July 1748], Founders Online, URL: https://founders.archives.gov/documents/Franklin/01-03-02-0130#BNFN-01-03-02-0130-fn-0007

[8] 参考:三笘利幸『マックス・ヴェーバーと「近代文化」ー『倫理』論文は何を問うのか(3)ー』、立命館産業社会論集第55巻4号、2020

山川 淳生

(株)日本クアオルト研究所・研究員
2011年多摩美術大学卒業、2013年成城大学大学院修了、2016年成城大学大学院博士課程後期単位取得満期退学、2016-2020年首都大学東京(現:東京都立大学)非常勤講師
研究論文等:研究ノート『ルドルフ・シュタイナーの神話・寓話観から』『古代思想は何処へ行ったのか』『ゲーテと占星術、想像力とポエジー』紀要論文『ゲーテの『秘儀』とその探求、及びシュタイナーの解釈』など