COLUMNPosted on 2023/04/05

街道と旅人文化:ローマ街道からマイスターの遍歴へ

 ドイツ・クアオルトの街づくりひとつの特徴として、医療と観光が結びついているというところがあります。そこでは、医療保険適用となる滞在型の医療の拠点であることを利用し、往来する人々のための宿泊業・観光業にも力を入れることで、それぞれが相互に有効活用されるような街づくりがなされています。歴史的にも、街の発展とそのような往来者のための旅行業・観光業とは古代より極めて深く関わりあっている要素です。

 現在、クアオルトとして認定されている街は、古来からの伝承として「病を治す奇跡の水」のある街であったり、湯治場、および都市の富裕層の休暇の地として、多くの旅行者や巡礼者等を引き寄せ、発展した歴史を持つ街が数々存在します。

 

 そしてまた、街の発展の起因でもある旅行者や巡礼者を引き寄せる上で、その場所に人々が至るための、時に国家事業としての「道の開発」は街の発展の大きな発端となります。

 ただ、そのような「道の開発」の最初の要因は、旅行者というよりも移動や輸送を目的としています。移動や輸送のために切り開かれた道沿いには、往来する人々や荷車を引く動物たちのための休息用の宿舎となる宿泊業がうまれます。そしてそのような道を、後により「余暇的」な「旅」に活用する人々の文化が現れ出すと言えます。

 

有史以前の道からローマの街道へ

 有史以前の新石器時代などの時代より、狩猟民族たちは集めた食料を貯蓄し、後に動物を家畜化してその備蓄した物を運ぶことに利用するようになりました。それにより、交易と輸送のための道が切り開かれていくことになります。

 牛の家畜化は、紀元前9000年頃から既に考古学的な痕跡がありますが、ヨーロッパにおいては、銅石器時代である紀元前3500年頃、バーデン文化の考古学的調査におけるにおける牛の骨格変化から、軛などを用いて家畜化した牛を輸送や農作業に使われていたということがわかっています。また、フランスのブルゴーニュ・フランシュ・コンテ地域圏にあるジュラ県(Jura)のシャラン(Chalain)では、紀元前3100年のそりが発見されています。[1]

 陸の道も重要ですが、海や川は考古学的により重要な輸送手段となる場所です。銛、釣り針、網などを用いた漁業の痕跡は、ゆうに紀元前10000年頃のものから発見されています。ヨーロッパにおける最古の船の痕跡は、ドイツ北部のシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州のクリンクラーデ(Klinkrade)近郊の遺跡で発見された、デュヴェンゼーの櫂(Paddle von Duvensee)と呼ばれる紀元前6500年頃の船の櫂です。[2]

 

 ドイツでは、フランクフルト・アム・マイン(マイン川沿いのフランクフルト)など、川の名前が付け加えられている大都市が多くあります。アム・マイン(マイン川沿い)やアム・ライン(ライン川沿い)、またはアム・ゼー(湖沿い)など、水場に面した街の名前にはそのような言葉が冠されています。

 古代よりドイツでは、そのように運河に沿って街が築かれ、それによる産業を中心に発展していった歴史があり、ドイツにおいては特に運河の歴史的な重要性は大きなものとなっていることは、街に冠する水場の名称からもそれが伺い知れます。

 中世ドイツ文学の代表的存在である『ニーベルンゲンの歌』における船による移動の描写や、その文学の成立に関わる古代の北欧・ドイツの伝説でもある、ライン川に沈んだ「ニーベルンゲンの宝(Nibelungenhort, Nibelungenschatz)」の伝説などからも、運河を利用した移動や輸送が生活においてとても重要な役割を持っていたということが多く読み取れます。

 

 それに対しヨーロッパの陸路における特に重要な歴史的要素は、古代ローマの道の整備だと言えるでしょう。古代のローマ帝国では最大で80500キロメートルもの石畳で舗装された道があったとされています。[3]

 ローマから現在のドイツの領域に続くものも含むこのローマ帝国の「道の建設」は道の途上の遠征拠点・宿泊地となる街の発展に大きく寄与しました。すでに前のコラムで紹介しましたバーデン・バーデンも、古代ローマの遠征拠点・遠征における兵士や将軍たちの疲れを癒す温泉街として発展しましたが、道の開発はそのような街の発展の歴史と切っても切れない関わりがあると言えます。

 

 

旅を司る神とまれびとの神々

 古代ギリシアの歴史家、旅行家でもあったヘロドトスの『歴史』によれば、古代エジプトなどでも聖地巡礼の旅や、祭りに参加するための旅行者などの表現があり、文化としての旅には非常に古い歴史があることがわかります。[4]

 また、歴史上最古の文学と言われている古代メソポタミアの『ギルガメッシュ叙事詩』は、まとまって出土したものは紀元前1300年頃のものとされており、伝承として編纂されたものとしては紀元前3000年頃にまで遡ると言われて居ますが、その『ギルガメッシュ叙事詩』では、英雄ギルガメッシュの各地への旅が描写されています。

 同じくギリシアの古典文学の代表格のひとつであるホメーロスの『オデュッセイア』でも、英雄オデュッセウスが地中海の各地を漂流する冒険の物語が展開されています。

 

 そのような旅行者を歓迎することは、古代ギリシアのホメーロスの時代に既に習慣化されていました。旅行者は神ゼウスの加護があるとされ、旅行者をもてなさないことは、神々の怒りを買うものとされていました。前述の『オデュッセイア』では、以下のような著述があります。

 

 たとえあなたよりもひどい身なりの旅行者が訪れたとしても、旅行者を悪く扱うことは理にかなっていない。なぜならすべての旅行者たちは物乞いでさえゼウスが遣わしたものなのだから。[5]

 

 ギリシア神話や民話などでは、神々が人間の姿を持って人々の家を訪れるような神話が各種あります。紀元前1世紀~紀元後1世紀頃の古代ローマの詩人オウィディウスによる『変身物語』第8巻「フィレモンとバウキス」の物語などが代表的です。

 貧しい身なりの旅人に変装した神ゼウスとヘルメスが、泊めてくれる家を求めて家々を訪ねまわっていたところ、多くの家はその身なりから冷たくあしらわれていた中、町外れの貧しい家に住む老夫婦のフィレモンとバウキスはゼウスとヘルメスを快く受け入れ、貧しいながらも心を込めた晩餐を施しました。その歓待の褒美として、神々の導きにより2人の老夫婦は街を襲う洪水から逃れることができ、また加えて恩賞として老夫婦は願いをひとつ叶えてもらえることになり、「私たちがやがて息をひきとるときは、お互いがお互いの墓の準備をする等といったことがないように、ふたりが同じ時に息をひきとるようにして欲しい」というふたりの願いもやがて叶えられたという物語です。

 

 日本にも、神々の化身でもある旅人をもてなす「まれびと」の民俗学的習慣があります。もしもその人の地を訪れた旅人が、卑しい身なりや乞食の姿であってもその正体が神であったならば、その時に悪い扱いをすることは神々の怒りを買うことになります。そのようにして旅人たちを歓迎し受容する文化もできていきました。

 

 このような旅の街道の建設と旅の文化を後押しするものとして、古代の旅行文学あります。前述の『ギルガメッシュ叙事詩』や『オデュッセイア』などの古来から伝わる神話や英雄の冒険譚などの紀元前何世紀にあたるよりも数百年後ろにあたる世代、紀元前後数百年の頃の古代世界におけるパウサニアスの『ギリシア案内記』やストラボンの『地理誌』などは、彼らが旅をして見聞きしたものをはじめとする古代の地中海沿岸の国などの歴史や文化、逸話、名所などを数多く紹介しています。

 それらは古代地中海領域の各地方の伝説集的な側面も大きいですが、現代の旅行ガイドブックにつながるものがあります。こういった文献たちは、様々な地域への憧れと旅の目的を当時の読者たちに与えたことでしょう。そのような意味で、これらの文学も旅行の歴史の一部だと言えます。

 

 

古代ローマの「余暇の旅行」の文化

 輸送や街や法など、人間たちが生きる上で最も必要不可欠な部分の整備がなされ、文明化が進むと、自ずと社会のなかで生活に余裕のある階級が生まれてきます。古代ギリシアなどは、特にそれによって学問や知識の探求、哲学などが盛んになりました。それと同時に、その生活の余裕は特に一部の階級の人々に「余暇の旅行」の文化も生み出します。

 古代ローマのラテン語では、「余暇」のことを otium (オティウム)と言います。そのotiumの否定形がnegotium(ネゴティウム)「余暇でないもの」になり、ラテン語で「仕事」を意味します。[6]

 

 このように、古代ローマでは「余暇」と「仕事」が区別されていました。余暇を利用した学問探求や旅行は、主に上流階級で発展しましたが、そのような「余暇」の機会が、平民や奴隷にもなかったわけではありません。例えば、旅において馬や馬車を利用した旅は主に上流階級のものでしたが、平民や奴隷にも「余暇」があり、またその休日のためのレジャーが存在していました。

 

 奴隷という言葉は、アメリカの黒人奴隷等のイメージが主に先行されると思われますが、古代の奴隷という言葉に必ずしもそれが一致するわけではありません。[7]

 古代の奴隷には例えば年間約60日の休暇があったとされ、古代エジプトの、ピラミッドの建設における労働者の奴隷たちの出勤記録が記された大英博物館所蔵の石板には、比較的ゆるやかな理由で労働を欠勤した記録が多く残っています。[8]

 古代の奴隷も、雇い主によっては待遇が悪かったこともあるかもしれませんが、同じ人間であり、また雇い主自身の生活を支えてくれている労働力であることから、必ずしも使い捨ての労働力というわけではありませんでした。奴隷たちに悪い待遇や苦しい働き方を強いれば、それだけ彼らの労働意欲も落ち、自身の生活も脅かされる訳であるからこそ、雇い主の合理的・倫理的で正しい管理能力は求められていました。[9]

 

 そのような生活に余裕のある上流階級のローマ人たちの間では、郊外に別荘(ヴィラ)を持つことも流行しており、旅の目的としてそのような郊外の別荘への旅行というものもありました。特に裕福な階級層においては、気候の異なる様々な地域にそれぞれ別荘を持ち、それぞれの季節に合わせて利用していたとも言われています。

 

 過去のコラムでミュンヒェンの有力者たちの別荘地として近代に発展を遂げたクアオルトであるガーミッシュ・パーテンキルヒェンを紹介しました。近郊の中心都市であり、芸術家たちの街であるミュンヒェンから道が建設され、ガーミッシュ・パーテンキルヒェンに休暇地として数多くの芸術家たちがやってくることで、芸術と健康保養の街として発展することとなりましたが、古代ローマの別荘文化にも、街道沿いの辺境の村や宿泊街が大都市からの人の移動の影響を受ける発展する、そのような側面があったことでしょう。

 

 古代ローマの街道は前述のように歩行の旅行者と馬や馬車での旅行者とが居ました。街道の街には、宿泊用の大きな宿である「マンシオネス(mansiones)」があり、宿泊用の場所であると同時に厩舎や馬の交換所、商店等の機能がありました。またそこには「スタティオネス(stationes)」と呼ばれる道の警備隊の施設もありました。

 他に、1日に到達可能なルートを補完・補強するための簡素な軽食所、宿泊施設、厩舎のある「ムタティオネス(mutationes)」または「ホスピティア(hospitia)」などと呼ばれた宿泊所・道に拠点なども各地に設備されていました。このような、道の建設およびその補完のために作られた新たな簡易的拠点もまた街の発展の出発点となっています。[10]

 

 

学びの旅とマイスターの遍歴時代

 このように、古代世界の余暇の旅行はいくつかに分類されます。大きく分けると例えば、

 

①伝説の場所、景勝地などを見にいく観光旅行
②祭りへの参加のための観光旅行
③宗教的巡礼および宣教のための旅行
④自身の病を治すための旅行
⑤知識や経験を得るための旅行

 

 などに分類することができると言えます。[11]

 

 ④は、古代においては宗教巡礼に近い部分も多いですが、現代でいうところのヘルスツーリズムに通じるものでもあり、過去のコラムでも書きましたアスクレペイオンのように病を治す力があるとされる聖地や温泉地、伝説の奇跡の泉や医者のいる街への巡礼の旅のようなものです。

 加えて特徴的なものとして、⑤知識や経験を求めた旅です。前述のような、世界の驚異とも言える観光地のなかには、アレクサンドリアの大図書館や、哲学で有名なアテネの学校のように、学びや知識の習得を目的とするものもありました。古代の伝説によれば、ピュタゴラスなどの古代の哲学者たちも、インドやエジプトなど外国を旅することで、その知識や哲学を習得したとされる伝説もあります。[12]

 

 そのような古代の「学びの旅」から連想されるのが、ドイツのマイスターの遍歴制度です。中世のドイツでは、職人たちは職人連合であるギルドである程度の修行を積み、最終的には親方(マイスター)を目指すことになりますが、その過程で必ず「遍歴期間(Wanderschaft, Wanderjahre, Walz)」が設けられました。その期間にマイスターは、他の地域に旅立ち、そこで修行をする必要がありました。このマイスターの遍歴制度は、現在も続いており、「手工業職人共同体の遍歴制度(Handwerksgesellenwanderschaft Walz)」として2014年にドイツの無形文化遺産に登録されました。[13]

 

 このマイスターの遍歴制度も、各地への旅行という要素のために、ドイツ各地に旅行者向けの宿泊業の文化をもたらす一助になっていたと考えられます。他にも、中世ドイツは様々な旅人がいました。

 例えば、中世ドイツの騎士たちにも「遍歴」の習慣があり、主に騎士としての新たな冒険や修行を求めて旅に出るのが騎士たちにとって名誉ある行為であり、同じ場所にずっと留まり続けることは騎士にとって名誉のない行動だともされていました。

 中世ドイツ文学は、騎士の遍歴物語が代表的です。例えば、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルツィヴァール』やハルトマン・フォン・アウエの『エーレク』『イーウェイン』などをはじめとする代表的な騎士物語では、遍歴騎士たちが当時の価値観における名誉と美徳を求めて各地を旅し遍歴する様相が描かれています。

 当時のドイツでは、騎士としてのなんらかの成功を得た後も、それに満足しそこに定住しとどまり続けるよりも、常に未知なるものを求め新しい名誉のために遍歴を行うことのほうが素晴らしいとされていたことが、それらの文学から読み取ることができます。ここには、マイスターがその場所での学びを終えた後も「学びの旅」の遍歴によってさらなる学びと文化交流による精神的教養の取得を促されていたことと共通する精神があります。

 

 その他に、中世ヨーロッパに特徴的な遍歴者としては、そのような中世の騎士たちの物語をはじめとする物語を歌う吟遊詩人(ミンネゼンガー、トルバドゥール)や歌い手、奇術師・旅芸人の一座などがいました。[14]

 これらの職業は、部分的に遍歴職人・遍歴騎士とも重なるものです。すなわち、吟遊詩人や歌い手の多くは同時に騎士や貴族、遍歴職人でもあったからです。騎士たちは、異国を旅しその文化や詩歌などを含む芸術の知識と経験を得つつ遍歴する者であり、また遍歴の者たちを迎え入れる人々はその者が持つ新しく豊かな文化を知ることを望みました。

 そのようにして「学びの旅」をした者とその知識や精神に興味を持つ街の人々の精神的文化性の相互作用が存在していたと言えます。

 マイスターや遍歴騎士、吟遊詩人などの旅人たちの「学びの旅」を尊重する精神は、宿泊業や商業などの産業への影響だけでなく、技術・文化的な交流による影響にまで、街の発展の歴史に大きな影響力を持っていたものだと言うことができます。

 

 

注釈
[1] Animal traction and household economies in Neolithic Europe, Peter Bogucki, Antiquity 67 pp.492–503, および, Un travois pour les dieux – Lac de Chalain 31e siecle av. J.-C. | Canal U, République Française,
URL:https://www.canal-u.tv/chaines/cerimes/films-du-crava-archeologie-ethnologie/un-travois-pour-les-dieux-lac-de-chalain-31e

[2] Als die Menschen zu den Nassen paddelten, Michelle Kossel, hamburger Abendblatt,
URL:https://www.abendblatt.de/region/stade/article107773255/Als-die-Menschen-zu-den-Nuessen-paddelten.html

[3] Ancient Rome Live – Roads(General),
URL:https://ancientromelive.org/roads-general/

[4] ヘロドトス『歴史』2巻60、現在のエジプト、テル=バスタにあたる、聖地ブバスティスにあるバステト神殿への巡礼者たちとそこで開催される祭典が叙述されています。

[5] ホメーロス『オデュッセイア』14巻56-59、他参考:1911 Encyclopædia Britannica, Hospitium,
URL:https://en.wikisource.org/wiki/1911_Encyclop%C3%A6dia_Britannica/Hospitium

[6] 英語のnegociateはこのラテン語のnegotiumから「仕事をもたらす=交渉」という意味へと変化していったものだと言えます。このotiumという語は、インドヨーロッパ祖語の「他のもの、退く、再び」といった意味の言葉に語源を持っています。

[7]  「奴隷」はそれぞれ古典ギリシア語ではδοῦλος(ドゥーロス)、ラテン語はservus(セルウス)です。英語のslaveは後期ラテン語のsclavus(スラブ地方)などと関連があると見られ、これらとは全く違う言葉です。ラテン語のservusは今の英語のserviceやservantなどにつながるもので、侍者、給仕的なイメージを持つ言葉です。この言葉は、インドヨーロッパ祖語の「守護、監視、見守る人」などの意味を持つ言葉に語源を持ちます。
 また、古典ギリシア語のほうのδοῦλοςにおいては、インドヨーロッパ語族系の語源と、アラム語系の語源とが挙げられています。インドヨーロッパ系語族の語源としては、「外国人、外国、地方、敵、賊」などを意味する言葉の関連が言われていますが、アラム語系の語源には「侍者、給仕」的な意味の言葉との関連が言われています。

[8] Freizeit und Kommune: Begriffe, Definitionen, Erläuterungen, Dietrich Henkel, 2007, p.2, および, 3,200-Year-Old Egyptian Tablet Records Excuses for Why People Missed Work: “The Scorpion Bit Him,” “Brewing Beer” & More, Open Culture,
URL : https://www.openculture.com/2022/02/3200-year-old-egyptian-tablet-shows-why-people-missed-work-the-scorpion-bit-him-brewing-beer-more.html

[9] 家族・働き方・奴隷労働 ―史的観点から見た現代日本の諸問題―、五十君麻里子、九州法学会会報、2021

[10] Via Claudia Augusta – Römische Raststätten und Herbergen,
URL:https://www.roemerstrasse-via-claudia.de/roemische-raststaetten-und-herbergen

[11] Reisen im Römischen Reich, Charakteristika des Reisens in der römischen Antike – Formen des Reisens (Kurzfassung),
URL:https://de.m.wikipedia.org/wiki/Reisen_im_R%C3%B6mischen_Reich

[12] The Story of Indian History 2 – The Story of Pythagoras, Jayakumar S. Ammangudi, https://iharedu.org/the-story-of-pythagoras/
Did Pythagoras Study Philosophy in Egypt?, Spencer McDaniel,
URL:https://talesoftimesforgotten.com/2021/03/24/did-pythagoras-study-philosophy-in-egypt/

[13] Deutsche UNESCO-Komission, Handwerksgesellenwanderschaft Walz,
URL:https://www.unesco.de/kultur-und-natur/immaterielles-kulturerbe/immaterielles-kulturerbe-deutschland/handwerker-walz

[14]  主に中世の吟遊詩人のことを、中世フランス領域ではトルバドゥール、中世ドイツ領域ではミンネゼンガーと呼ばれます。トルバドゥールは、フランス語のtrouver「見つける」と同源となり、英語のturn「回る」やstorm「嵐」、ドイツ語のTurm「塔」やStrum「嵐」など、螺旋、渦巻くものをイメージした語源を持ちます。
 ミンネゼンガーは、中世高地ドイツ語でMinneは「愛」を意味し、Sängerは「歌い手」を意味します。Sängerは英語のSinger「歌い手」と同じものです。Minneという言葉は、現代ドイツ語にはほとんど消滅している言葉ですが、印欧祖語で「考える」という意味の言葉からきています。英語のmind, memory, mental, などと同源であり、またサンスクリットのmantra「マントラ=考えることから離れる」という言葉なども同源になります。
 騎士道においては、騎士たちの貴族や身分の高い女性への愛は騎士道のモラル的なところも含め、重要な要素でした。この宮廷を渡り歩く吟遊詩人の文化は、後の中世後期にそのパトロンともなる宮廷の貴族たちの勢力が弱まった後は、都市に定住しそこで歌い手の名手、すなわち「マイスタージンガー」の文化として手工業者たちが歌や音楽の技術を磨きを競い合う文化に発展しました。

山川 淳生

(株)日本クアオルト研究所・研究員
2011年多摩美術大学卒業、2013年成城大学大学院修了、2016年成城大学大学院博士課程後期単位取得満期退学、2016-2020年首都大学東京(現:東京都立大学)非常勤講師
研究論文等:研究ノート『ルドルフ・シュタイナーの神話・寓話観から』『古代思想は何処へ行ったのか』『ゲーテと占星術、想像力とポエジー』紀要論文『ゲーテの『秘儀』とその探求、及びシュタイナーの解釈』など